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東京高等裁判所 平成4年(う)1065号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人村田敏提出の控訴趣意書に、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官奥眞祐提出の答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第一  控訴趣意中事実誤認の主張について

所論は、要するに、被告人は、本件当時T(年齢不詳。外国人登録原票上の年齢・当時一四歳。以下「T」という。)に対する殺意を有していなかったのに、合理性を欠く被告人の検察官調書を信用するとともに、被害者の致命傷の程度を重視して、被告人が殺意を有していたとして殺人罪の成立を認めた原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、というのである。

一  そこで検討すると、関係証拠によれば、以下の事実を認めることができる。

1  被告人、T及び被告人の姪のH(当時一五歳。以下「H」という。)は、いわゆるベトナム難民として原判示国際救援センター内の宿泊棟で起居していた。Tは、包丁で人を傷つけたり器物を壊すなど、かねてより粗暴な振舞いが多いことで周囲の者から恐れられており、また、Hに好意を寄せ執拗に交際を求めていたが、Hがこれを断り続けており、これらのことは被告人も知っていた。

2  Hは、平成四年一月三一日午前零時四五分頃、原判示の自室二〇九号室(7.5畳間。出入口は間口七三センチメートルのものが一箇所あるだけ。)において、一人でテレビを見ていた際、出入口のドアをノックする音がしたためドアを開けると、Tが左手に缶ビールを、右手に刺身包丁(〈押収番号略〉。以下「包丁」ともいう。)を持って立っており、Hが断るのもかまわず、無理矢理同室内に押し入ったうえ、Hの右肩付近に包丁を突きつけ、「愛してくれないと刺し殺すぞ。」と言いながらHにキスをしようとしてきた。

3  そこで、身の危険を感じたHが大声で助けを求め、隣の二一〇号室の自室でその声を聞きつけた被告人が急いで二〇九号室に駆けつけると、TがHに包丁を突きつけていたので、被告人は、Tに部屋から出て行くよう二、三回言って同人の側に近寄り、その左腕を掴み体を入れ換えるようにしながら同人をドアの方に連れて行こうとした。

4  これに対して、Tは、被告人の方に振り向きざま被告人の胸腹部付近めがけて二度にわたり包丁を突き出してきた。被告人は、これを避けようとしたが、右手を切られ怪我(右小指根元に七針、右小指指先に五針、右薬指指先に三針の縫合)をしたため、憤激すると同時に身の危険を感じ、両手でTの右腕を捻るようにして包丁を取り上げ、向かい合ったTを部屋から追い払うため、手にした包丁をTの方に向かって小さく突き出し、同人の胸に軽傷(長さ約三センチメートル、深さ約1.5センチメートル)を負わせた。なお、Hは、被告人がTからナイフを取り上げた直後頃、隣の二一〇号室に逃げ込んでいる。

5  ところが、Tは、これに怯むどころかなおも被告人に向かってきて、被告人の首に右腕を回し、左手で被告人の右腕から右肩辺りを掴み、被告人の首(肩付近を含む。)もしくは頭を強い力で下方に押さえ付けるようにしてきたので、被告人は、包丁を取り返されたら殺されると感じ、前かがみの状態で顔を下に向けたまま、右手に持った包丁を右から左に振り回すなどしてTの肩口から背中付近を何回にもわたって突き刺した。

6  そのうちTの力が弱くなってきて、被告人が押すようにすると、Tは床に倒れ間もなく動かなくなった。

7  右刺突行為の結果、Tは、左右顔面、後頚部、背部、左肩部、左上腕背面部等に原判示のとおり計一〇か所位の創傷等を負い、そのころ同所において死亡するに至った。致命傷は、創洞の深さが約二四センチメートルに及び左右肺、心膜、胸部大動脈、食道、上大静脈損傷を伴う背部左側の刺切創であるが、その他に主たる傷害として、左肩部に創洞の深さが約一二センチメートルの刺切創がある。

8  被告人が使用した包丁は、原判示のとおりステンレス製で刃体の長さが約二三センチメートル、最大幅約3.2センチメトールの鋭利な刃物であるが、現場での押収時には刃先が僅かに欠けていた。

9  被告人は、本件当時身長約一七一センチメートル、体重約六三キログラムであったのに対し、Tは、身長約一六九センチメートル、体重約48.3キログラムで、当時黒色Tシャツの上に黒色革製ジャンパーを着用し、紺色ジーンズのズボンを履いていた。

10  Tは当時血液一ミリリットル当たり2.2ミリグラム又はそれ以上の多量のアルコールを身体に保有しており、このことからすると、同人は本件当時高度の酩酊状態にあったといえるが、被告人及びHは、Tがある程度酩酊していることに気づいてはいたものの、高度の酩酊状態にあることまでの認識はなかった。なお、被告人も当夜ブランデーや缶ビール(三五〇ミリリットル入りを約一二、三本)を飲み、かなりの酩酊状態にあったが、本件から約三時間余の後に行われた呼気検査の検知結果は、呼気一リットル当たり0.1ミリグラム未満となっている。

以上の認定は、原判決が「本件の経過」等として認定しているところと基本的に異なるものではない。ちなみに、Hが二〇九号室を出た後の被告人とTの行動に関して目撃者は存在せず、この点の認定は主として被告人の捜査及び公判段階における供述に頼らざるを得ないところがあるが、被告人の供述は、右認定に符号する限度において他の客観的証拠に照らしても不自然なところはなく信用できるというべきである。

二  以上の事実を前提として、殺意の存否・内容を検討する。

原判決は、被告人が使用した凶器の形状、刺突行為の回数、傷害の部位・程度からみて、被告人が検察官調書中で「(包丁を取戻そうとしてか)Tが再び襲ってきたので、より一層腹が立つとともに、Tを殺さなければTに殺されると思った。それでTを殺すしかないと思い、右手に持っていた包丁で最初Tの顔面や頭部、次いで背中を力を込めて何度も刺した」と述べているところは十分信用できるとしている。右の原判示は、被告人が確定的殺意を持って本件犯行に及んだとの趣旨と解される。

たしかに、被告人が使用した包丁の形状、刺突行為の回数、傷害の部位・程度等は殺意の認定に当たって無視し得ない事情であるが、本件において、これらの点から確定的殺意を肯定する被告人の検察官調書の記載が直ちに信用できるとするのは、必ずしも当を得たものということはできない。

すなわち、右検察官調書は、前記のとおり、包丁で最初Tの顔面や頭部、次いで背中を力を込めて何度も刺したという内容であって、被告人が突き刺す部位及び当該部位に対する攻撃の順序も認識していたというものである。しかし、本件刺突行為の際における被告人は、原判決も認めるように、Tから首もしくは頭を上から押さえつけられて前かがみの状態にあったのであるから、Tの姿勢や手にしていた包丁の当たる部位等に関し明確な認識があったとは到底認められないのである。両者が揉み合いの状態にあったことは考慮しなければならないとしても、このことは、Tの負った主な傷害が前記一、7のとおり肩、腕、背中、左右顔面とかなり広い範囲に及んでいることからも容易に推認することができる。また、致命傷となった背部左側の刺切創のほか左肩の刺切創の程度という点は、骨その他刺入の妨げとなるものがなかったことのほか、被害者の身体の動きが包丁の刺入を深くする方向に作用したことなどによって、被告人が予期していた以上の重傷になったと考える余地もあり、必ずしも殺意の強固さを根拠付けるものとはいえない。

他方、被告人は、原審及び当審において殺意の存在を否定しているけれども、原判示のとおり、使用した凶器の形状、傷害の部位・程度等に加えて、被告人が刺突行為に及んだ際、Tに押さえられて顔が下を向いていたとはいえ、両者は互いに体が接触する程度の至近距離にあったのであるから、被告人としては、包丁を振り回すなどすれば、その刃先がTの身体、場合によってはその枢要部に突き刺さるということは当然予測できたものとみることができ、そのような状況下で手加減することなく、多数回刺突行為に及んでいることに照らせば、当時の被告人が未必的な殺意の下に右刺突行為に及んだことは否定できないというべきである。

三  したがって、殺意の存在を否定する所論は採用できないが、原判決には被告人の殺意の内容を身体の部位を認識してあえて刺突行為に及んだ確定的なものとしている点において事実誤認があるといわざるを得ない。そして、この誤認は、次に考察するとおり、正当防衛の成否の判断に影響を及ぼすといわなければならない。

第二  控訴趣意中法令適用の誤りの主張について

所論は、要するに、被告人の本件行為は刑法三六条一項、盗犯等の防止及び処分に関する法律(以下「盗犯等防止法」という。)一条一項三号に定める正当防衛に該当するのに、これを認めず過剰防衛の成立を認めるに止まった原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令適用の誤りがある、というのである。

一  本件発生に至る経緯及び状況は、前記第一、一で認定したとおり、TがHの部屋に押し入り、Hに対して包丁を用いて無法な行為に及ぼうとしたのを、被告人が制止して室外に退去させようとしたところ、いきなりTが包丁で被告人に突き掛かってきたのであるから、原判決が認定説示するとおり、Tの右行為は刑法三六条一項に定める被告人の生命身体に対する「急迫不正の侵害」に当たり、また、被告人がTから包丁を取り上げて、同人の胸を突き刺したり、頭を押し下げられて包丁を取り返されそうになってTの背中等を刺した行為が、いずれも「自己の権利を防衛するため」に行われたことは明らかというべきである。そして、被告人の右一連の行為は、他面において、盗犯等防止法一条一項冒頭及び三号に定める故なく人の住居に侵入した者を排斥しようとした場合に該当し、かつ、自己の生命・身体に対する現在の危険を排除するために行われたものということもできる。

二  そこで、次に被告人の右刺突行為が防衛行為としての相当性を備えているかについて検討を加える。

1  原判決は、被告人に対し正当防衛の成立を否定した理由として、包丁を奪い取った後の被告人は、Tより体格的に優れていたことやTが当時高度の酩酊状態にあったことなどからみて客観的に優位に立ったのであるから、包丁をTの手の届かないところに投げ捨てるなどすれば、素手でもTの抵抗を十分に制圧できたし、包丁を投げ捨てないまでも、Tの攻撃を防ぐためには、包丁を振り回すとか、刺し方や刺す場所を考えてその反抗を弱め又は制するなどの方法があったとして、身体の枢要部に対して一〇回前後という執拗な刺突行為に及んだ被告人の行為は防衛行為としての相当性に欠けると説示している。

2  しかしながら、前記認定のとおり、被告人とTとは身長で僅か二センチメートルしか違わないうえ、体重差については、衣服を着ていた場合、外見上明確に判断できるとは必ずしもいえない。また、酩酊状態についても、血中アルコール濃度を測定した結果、事後的にはTが高度の酩酊状態にあったことが判明したとはいえ、本件当時の被告人やHは、Tがそのような酩酊状態にあったとは認識していなかったうえ、被告人自身もかなりの酩酊状態にあったと認められるから、Tの体格、酩酊状態等を理由として、被告人がTの攻撃をかわすのが容易であったとするのは相当でない。現に被告人はTから包丁を奪い取った後も同人に組み付かれ、首もしくは頭を上から押さえつけられて前かがみの状態にされるなど、むしろ守勢の状態にあったとみられるから、現判決のように被告人の方が力の上で「客観的に優位」に立ち、「素手でもTの抵抗を十分制圧することができた」とは到底いうことができない。しかも、特に留意を要するのは、被告人がTから首もしくは頭を上から押さえつけられて前かがみの状態にされ、Tの動きを把握し得なかったという点である。このような状況のもとにおいて、被告人が、かねて聞き及んでいたTの粗暴な性格や当夜におけるそれまでのTの行動等からみて、包丁を取り返されたならば殺されるかもしれないと思ったことには無理からぬところがある。そして、このような心境にあった被告人が、手にした包丁をいわばやみくもに振り回してTの攻撃を排除しようとしたことは、特に身体の枢要部を狙ったものではなく、また、Tの攻撃の気配が止んだ段階ではこれを中止していることが認められる以上、相当性の限度を超えないやむを得ない行為であることを否定できないものというべく、原判決のように、このような状況下で、被告人に対し、手にしている包丁をTの手の届かない所に投げ捨てるとか、Tの攻撃をかわすため包丁を振り回したり、刺す力を手加減するなり刺す場所を考えるべきであったなどの要求をすることは難きを強いるものといわなければならない。

3  なお、原判決が正当防衛の成立を否定した理由として、被告人がTの身体の枢要部に対して一〇回前後という執拗な刺突行為に及んでいると説示している点につき付言するに、右の原判示は、被告人が身体の枢要部であることを認識しつつそれに向け一〇回前後という執拗な刺突行為に及んだとの趣旨と認められるが、控訴趣意第一に対する説示でも述べたように、そのような事実を認めることは証拠上困難であるといわなければならない。確かに、Tの身体の枢要部には致命傷となった深さ約二四センチメートルに及ぶ刺切創等が存在するけれども、その余の傷のなかには、左腕部等必ずしも身体の枢要部とはいえない箇所に存在しているものもあり、このような傷の状況は、被告人が述べるように、Tに首もしくは頭を押さえつけられ下を向いている状態で、刃先の及ぶ部位について明確に意識することなく包丁を振り回したために生じたものであることを窺わせるものである。原判決の前記説示は失当といわざるを得ない。

4  また、被告人は、司法警察員調書(平成四年二月一四日付)及び検察官調書(同月一八日付)において、右刺突行為の途中で被害者の左手の力が弱くなったのを感じたが、そのまま刺突行為を継続した旨述べている部分があり、これが仮に事実であるとすれば、それ以後の刺突行為は、正当防衛行為としての要件に欠ける疑いがないではない。しかし、被告人のその余の司法警察員調書及び検察官調書並びに原審及び当審における各供述中には、そのようなことを述べていないもの、或いは左手の力は弱まったが右手の力は弱まっていなかったと述べるものなどのほか、力が弱まったのは刺突行為の後である旨述べているものなどがあり、これに本件当時の状況からみて、被告人の刺突行為が短時間のうちにほぼ連続的に行われたとみられることなどを併せ考えると、刺突行為の途中でTの左手の力が弱くなったとの右供述記載部分はたやすく信用することができない。

三 以上の次第で、被告人の本件刺突行為は、TがHの居室に押し入ってHに包丁を突きつけ、その場に駆けつけた被告人がそれを制止して、Tを室外に押し出そうとしたところ、同人から包丁で二度にわたって攻撃を受けたため、その包丁を奪い、これを用いてTの攻撃をかわし、同人を室外に追い出そうとしたのに、なおも同人が包丁を取り返そうと両手で被告人の首もしくは頭を上から押さえてきたことから、被告人が自己の生命・身体を守るためTに対して加えられたもので、たとえこれが未必的殺意の下に行われたとしても、直ちに相当性を超えるものであったとまでは認め難く、被告人の本件行為について、刑法三六条一項、盗犯等防止法一条一項三号による正当防衛の成立を否定することができない。

四  そうしてみると、被告人に対し過剰防衛が成立するに過ぎないとし、刑法三六条二項を適用するに止まった原判決には、判決に影響を及ぼすことの明かな事実の誤認、又はこれに加えて法令適用の誤りがあるといわなければならず、論旨は理由がある。

よって、量刑不当の所論に対する判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八〇条、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により更に次のとおり判決する。

本件公訴事実は、「被告人は、平成四年一月三一日午前零時四五分頃、東京都品川区〈番地略〉財団法人アジア福祉教育財団難民事業本部国際救援センター宿泊棟〇棟二〇九号室H方居室において、Tから刃体の長さ約二三センチメートルの刺身包丁で突きかかられたため、これを同人から奪い取ったが、なおも同人が被告人に組み付いてきたことに激昂し、とっさに、右Tを殺害しようと決意し、奪い取った右包丁で同人の胸部、左頬部、後頸部、左背部等を多数回突き刺し、よって、そのころ、同所において、同人を大動脈・上大静脈・左右肺を損傷する背部左側刺切創による失血により死亡させて殺害したものである。」というのである。

しかしながら、前記認定のとおり、被告人の本件行為は、刑法三六条一項、盗犯等防止法一条一項三号の正当防衛行為に該当する余地のあることを否定することができず、結局罪とならないことに帰するから、刑訴法三三六条により被告人に対し無罪を言渡すこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官小林充 裁判官宮嶋英世 裁判官中野保昭)

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